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大阪地方裁判所 昭和40年(わ)5862号 判決

被告人 浜野秀明 川本義一

主文

被告人浜野秀明を懲役七年に処する。

同被告人に対し、未決勾留日数中三百日を右刑に算入する。

押収してある刺身包丁一本(昭和四一年押第九九号の1)を同被告人から没収する。

被告人川本義一は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人浜野秀明は

第一かねてより目星をつけていた時計店に押入り金品を強取することを企て、氏名不詳の男と共謀のうえ、昭和四〇年五月一五日午後一〇時頃刺身包丁各一本を携えて大阪市南区東平野町三丁目三一番地時計店白光堂こと石井広方店舗に赴き、おりから妻とともに店仕舞い中の同人に対し、被告人浜野において所携の刺身包丁(昭和四一年押第九九号の1)をつきつけ「わかつているやろ」と申し向けて脅迫し、その反抗を抑圧して金品を強取しようとしたが、同人に利き腕をとられるなど必死の抵抗をされたうえ、同人の妻美代子に非常ベルを押されたため、その目的を遂げないで逃走したが、その際、右石井広に対し全治約五日間を要する左中指、左手掌、右環指各切創の傷害を与え、

第二指川利彦と共謀のうえ、同年三月四日午前四時頃、窃盗の目的で、同市生野区新今里町二丁目二三番地所在の前記石井広方居宅裏口の施錠をはずして同所から同人方屋内に侵入し、

第三単独または共謀のうえ別紙犯罪一覧表記載のとおり、それぞれ他人所有又は保管の財物を窃取し

たものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(累犯前科)

被告人浜野秀明は、(一)、昭和三〇年二月一四日大阪地方裁判所において窃盗の罪により懲役二年に処せられ(同三一年七月五日仮出獄、同三二年一〇月二五日仮出獄取消)、同三七年九月二〇日右刑の執行を受け終り、(二)、昭和三二年六月二五日同裁判所において強盗の罪により懲役四年に処せられ、同三九年三月二〇日右刑の執行を受け終つたもので、この事実は、検察事務官坪川庄蔵作成の前科調書によりこれを認める。

(法令の適用)

法律によると、被告人浜野の判示第一の所為は刑法六〇条、二四〇条前段に、判示第二の所為は同法六〇条、一三〇条前段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、判示第三の各所為はいずれも刑法二三五条(番号1および4の罪を除きさらに同法六〇条)に各該当するところ、判示第一の強盗致傷の罪につき有期懲役刑を、判示第二の住居侵入の罪につき懲役刑をそれぞれ選択する。

同被告人には前示前科(一)、(二)があるので判示各罪につき同法五六条一項、五七条によりそれぞれ再犯の加重(強盗致傷の罪の刑は同法一四条の制限に従う。)をし、以上は同法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条により最も重い強盗致傷の罪の刑に同法一四条の制限内で法定の加重をした刑期の範囲内で同被告人を懲役七年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中三百日を右刑に算入し、押収してある刺身庖丁一本(昭和四一年押第九九号の1)は判示第一の強盗致傷の用に供した物で被告人以外の者に属さないから同法一九条一項二号、同二項本文により同被告人からこれを没収し、訴訟費用は刑事訴訟法一八一条一項但書を適用し同被告人に負担させないこととする。

(被告人川本義一に対し無罪の言渡をした理由)

一  被告人川本義一に対する公訴事実の要旨は、被告人川本義一は同浜野秀明と共謀のうえ判示第一記載の犯行を行つたものであるというのである。

よつて、証拠を検討してみるに、第二回公判調書中証人石井広、第三回公判調書中証人石井美代子、第四回公判調書中証人浜野秀明(但し、被告人川本が共犯者であることを前提とする部分を除く。)の各供述部分、医師辻尚司作成の診断書、押収してある刺身包丁一本の各証拠を総合すると、被告人浜野が他一名の共犯者とともに判示第一記載のとおりの強盗致傷の犯行に及んだことはこれを認めることができる。ところで、被告人浜野は右の共犯者は被告人川本であると供述し、被告人川本は、逮捕以来当公判廷にいたるまで終始、右の事実を否定している。当裁判所は、結局、被告人浜野の右供述は信用することができず、他に被告人川本の犯行を認めるに足る証拠もないので、被告人川本が被告人浜野と共謀のうえ本件犯行をしたと認めるにはなお合理的な疑が存するものとの結論に達した。以下にその理由を述べることとする。

二  本件において被告人川本の罪責を決定する唯一の証拠は共犯者である被告人浜野の供述である。そこで、右供述の信用性については慎重にこれを吟味する必要があるが、それに先き立ち同被告人の供述内容の大要をみてみることとする。

前記公判調書中の被告人浜野が証人として供述した部分によると、同被告人と被告人川本とは前刑受刑中大阪刑務所で知り合つた仲で、昭和三九年二月二五日相前後して出所したが、昭和四〇年五月一四日正午過頃南海本線萩の茶屋駅附近の通称萩の茶屋商店街において偶然に出会い(これが出所後二回目の出会いと云う)、その際、被告人川本が「仕事がないから何か良いしのぎはないか。」と言うので、被告人浜野は遊んでおり金に困つていた際でもあつたので、「良い仕事があるがちよつときついぞ、それでもよかつたら一緒に行こうか。」と言つて暗に強盗をすることを誘いかけると、「きつくてもかまわんから一緒に行く。」と言つて応じたので、かねてより目星をつけていた前記石井時計店に強盗に入ることを話して賛成を得た。そして、その場は一旦別れて、同日午後七時頃同所附近で落合つたうえ右時計店の下見分に行き、その際犯行の日時、方法等について相談した結果、翌一五日被告人浜野の準備する包丁を携えて閉店間際に右時計店に押入り金品を強取することとし、五月一五日午後八時か九時頃、前日と同じ萩の茶屋商店街で落ち合い、途中で自宅に戻り服を着換えてきた被告人川本とともに現場に臨み、判示第一記載の犯行を共同して実行し、失敗に終つてその後各別の方向に逃走したが、その翌一六日正午頃、前日の約束に従い前記萩の茶屋商店街で再会して互の無事をたしかめ合つた旨の記載があり、第八回公判調書中の証人として被告人浜野の供述部分をみても、同被告人の前記供述と矛盾抵触する点はなく、この限りで同被告人の本件に関する供述は一応一貫しているものと認められる。

三  しかしながら、右被告人浜野の供述は次に掲げる諸事由によつておやすく信用しがたいものと考える。

(一)  被告人浜野は当初より被告人川本が共犯者であると供述していたのではないこと。

右証人浜野の供述部分、第七回公判調書中被告人浜野ならびに証人小川吉弘の各供述部分を総合すると、被告人浜野は昭和四〇年八月二七日別件窃盗事件(同被告人に対する判示第三の番号6のもの。)の嫌疑にて逮捕されたが、同被告人は、もともと判示第一の強盗致傷事件の有力容疑者と目されていたため、右事実の捜査も右窃盗事件と並行して行なわれていたものであるところ、同年九月一〇日頃の取調の際右強盗事件を自供し、その際共犯者については、刑務所友達で偶然、霞町で会つた住所も名前も知らない立ちん坊をしている男である旨の供述をし、その後も右供述を維持し続けていたが、約二ケ月後の同年一一月一五日にいたり初めて被告人川本が共犯者である旨の供述をするにいたつたことが認められる。そして証人浜野の供述部分によると、被告人川本の氏名を言わなかつた理由として、犯行前、同被告人との間にどちらが捕まつても共犯者の名は絶対出さないという約束がしてあつたからというのである。しかしながら、後記のとおり、被告人両名は、刑務所で顔見知りとなつたほかには何ら特別の関係はなかつたものであるから、仮りにそのような約束があつたとしても前記のとおり二ケ月余もの長期にわたつて義理深く被告人川本をかばい続けてきたということはいかにも不自然であつて容易に理解し得ないところで、このことは判示第二および第三の住居侵入、窃盗などの共犯事件につき、被告人川本に比し格別親密な間柄にあつたと認められるところの指川利彦、松本弘治、藤崎房牟等の氏名についてはさしたる抵抗もなく供述していたとうかがわれる(前記証人小川吉弘の供述部分)ことに対比すると一層その感を深くする。また、被告人浜野が、結局被告人川本が共犯者である旨自供するにいたつた動機について、右証人浜野の供述部分によると、被告人川本との約束を守つて極力隠してきたが、九〇日以上も刑務所の中でむされ、苦しいのが半分と、同被告人が再び事件を起こしたとき本件が発覚すると罪が重くなり、自分が隠したことが無になるというのであるが、前者の理由については、そのような長期間被告人川本の氏名を隠していたこと自体不自然であることすでに右に述べたとおりであり、後者の理由については吾人に納得のゆく説明として理解しがたいものである。被告人浜野は霞町周辺のいわゆる立ちん坊と交遊関係があつたと認められ、また、前記認定の窃盗および住居侵入の事実によつても明らかなように、数多くの共犯者と犯行を共にしているものである。これらによれば、被告人浜野が当初にした共犯者についての供述がその後にした被告人川本が共犯である旨の供述に比し、全く考慮に価しない虚偽仮装のものと断定して排斥し去ることもできず、また、他の共犯者の存在の可能性を否定し去ることもできない。もつとも、被告人浜野は自己が主導的立場で犯行に及んだ旨供述しているので、事実を知らない虚偽の共犯者を引き入れ、これを主犯に仕立てて自己の刑責を軽くしようとしているとも考えられず、また、被告人川本を本件共犯者として引き入れるだけの同人との間の確執などの動機はないようである。しかし、証人小川吉弘の前記供述部分およびその後になされた検察官の釈明によれば、当初二ケ月余の間維持し続けた被告人浜野の供述についてはそれを調書に録取していない事実が認められるが、その間別件窃盗事件の捜査をしていたとの事情があつても、すくなくとも被告人浜野にとつては、右供述が捜査機関に信用されていないことは容易に察知しえたであろうから、共犯者を明白にしないことによる捜査の長期化に対する危惧と、共犯者の氏名を隠しているとみられることによる不利益を回避したいという、虚偽の供述に対する誘因は十分に認められるところである。要するに当裁判所としては、当初被告人浜野が二ケ月余の間他の共犯者との犯行を主張し、被告人川本の氏名を述べなかつたとの事情を重視し、その間被告人川本をかばつた理由やその後同被告人の名を明かすに至つた理由として被告人浜野の述べるところには合理性がないので、当時の被告人浜野の生活態度および右にみた虚偽の供述に対する誘因をも併せ考え、本件共犯者が被告人川本であるとする供述を信用するにはなお多くの疑問が存すると考えるわけである。

(二)  被告人川本の出所後の生活態度状況等よりして本件犯行に及ぶだけの動機が認めがたいこと。

同被告人の司法警察員に対する昭和四〇年一一月二六日付供述調書、第三回公判調書中証人北浦直子、同勇忠、第五回公判調書中証人豊留忠義の各供述部分、藤村静枝の司法警察員に対する供述調書を総合すると、被告人川本は、昭和三九年二月二五日大阪刑務所を出所し、その頃より同年五、六月頃までは大阪市西区内の萩原文義方で、その頃より昭和四〇年四月一五日までは同市港区内の岩佐塗装店で、同月二〇日頃から同年一一月初め頃までは同区内の豊留忠義方で、同月初め頃より本件により逮捕されるまでは同区内の城戸岡塗装店で引続き塗装工として勤務していたもので、昭和四〇年五月一五日頃は右豊留方において日給一、八〇〇円または一、九〇〇円を得て比較的まじめに勤務しており、その生活態度も女性関係で若干の乱れがみられるものの(それがために浪費する事情にはなかつた。)、昭和三九年秋頃より逮捕時まで引続き肩書住居である北浦方二階において、電気製品その他多数の家庭用品も備え、かつ、相当多額の預金を有して独立して安定した市民生活を営んできたことが認められるもので、証人浜野の供述部分にあるように、被告人川本が当時定職がなく、金銭的にも困つていたという事情がうかがわれないだけでなく、同被告人の犯罪歴(横領、住居侵入各一件、その他は全部窃盗)に徴しても当時同被告人には本件のような犯行の挙に出る動機は極めて少ないものであつたと考えられる。今仮りに、被告人浜野が供述するように被告人川本が本件の共犯者であるとすれば、同被告人は昼間は前記のように比較的まじめな塗装工として稼働しながら、夜間本件のような重大な犯行を決行し、その後も塗装工として稼働し続けていたこととなるが、このようないわば余技的な犯行があり得ないことではないとしても、本件犯行の態様およびその重大性と前記のような当時の被告人川本の生活状態などを併せ考えると、通常起こりがたい事象に属するのではないかと考えられ、このような事実を内容とする被告人浜野の供述はその信用性に多大の疑問が存するのである。

(三)  被告人川本と同浜野との関係から考えて本件犯行を共にする可能性がすくないと思われること。

前掲各証拠によると、被告人両名はともに前刑受刑中に刑務所内で顔見知りとなつたほかは以後昭和四〇年五月一三日までの間何らの交際もなかつた(もつとも、前記証人浜野の供述部分によると、五月一四日以前に路上で会つたことがあるが、そのときは声をかけ合う程度であつたという。)もので、互の住所も職業も知らず、気心も知れない間柄にあつたもので、その二人が出所後一年二ケ月余りの後、たまたま路上で再会した際、出所後の様子、近況などについて話し合うということもせず、いきなり本件のような強盗を共謀し、その翌日犯行を実行するということは余りにも唐突で、容易に首肯できないところであり、また、被告人浜野と、判示第二、第三各掲記の共犯者らとはいずれも事前もしくは事後においてかなり親しい関係があり(同人らの供述調書参照)交際も一時的でなかつた模様(番号6のほかはいずれも二回以上共謀して犯行を行つている。)であつたのに反し、被告人川本とは他に共犯事件がないのは勿論のこと、本件の五月一五日以降は同年七、八月頃地下鉄動物園前附近で一度出会つたことがあるだけで(もつとも証人浜野の供述部分によると五月一六日正午頃会つたと主張するが。)その際も世間話をしたに過ぎないというのであり、結局本件犯行日時頃以降も、また、何らの交流もなかつたものであることを考え合わせると益々被告人浜野の供述に対する疑念を深くするものである。

四  検察官は、証人浜野の供述は一貫して矛盾なく、内容も整然としており、他の客観的事実、状況に符合していて疑う余地がない旨主張する。

なるほど

(一)  第二回公判調書中証人石井広、第三回公判調書中証人石井美代子の各供述部分によると、被告人川本の背格好が犯人のうち背の低い方に似ていること、その犯人は黄系統または国防色の作業服ようの服と、同系統の色の登山帽をかぶつていたとの趣旨の記載があり、その限りで前記公判調書中の証人浜野の供述部分に符合するが、証人浜野は本件犯行を行つた当の本人であるから、共犯者が誰であつたかの点を除き、ありのままを言い換えると共犯者の氏名のみをすり替えて、供述したとすれば、共犯者の人相、着衣、犯行の態様等すべて客観的事実に符合させ得るし、また内容も自ら整然として一貫する筋合いであつて、かりに同証人において特別の意図を持つていたとすれば右事実の符合はむしろ当然のことであつて、このことをもつて右浜野証言の信用性を担保する資料とするわけにはいかない。

(二)  前記公判調書中証人小川吉弘の供述部分、司法警察員棚橋昭作成の昭和四〇年一二月二一日付実況見分調書によると、被告人浜野の供述にもとづいて実況見分をした際、同被告人は犯行当夜、被告人川本が服を着換えに帰えると言つて別れた地点というのを指示したが、被告人浜野の供述によれば同被告人は被告人川本の住所を知らなかつたと云うのに、右指示地点は被告人川本の住所地から六〇メートル位しか離れていない処であつた事実が認められる。しかしながら、被告人川本は後記のとおり、同年七、八月頃地下鉄動物園前で被告人浜野に出会つたことがあるが、その際、市民病院下の方に住んでいるということを伝えたというのであり、また右実況見分は、被告人川本が逮捕された後に施行されたもので、実況見分をした捜査担当者らには既に被告人川本の住所が明白となつていたものであることなどを考えると右事実の存在は証人浜野の供述の信用性を担保するについてさしたる意義を有しないものといわなければならない。

(三)  証人浜野の供述部分中、本件犯行の翌日である五月一六日正午頃被告人川本と再会した際同人が女の子供を伴つてきたとの点については、前記証人北浦直子の供述部分によると、同証人には幸子という当時六才位(昭和四一年四月就学)の女の子があり、被告人川本がその子を可愛がり、同女を連れて外出することが多かつた事実を認めることができ、また、右証人浜野の供述部分によると、同人はこの時以外女の子のことを知る機会がなかつたと云うのである。しかしながら、浜野は十合百貨店で同女のいわゆる面通しを行つた際同女を的確に指示しえなかつたばかりではなく、顔が面長であつた点を除いて背丈、年令もかなり相違していたこと、また、被告人川本の司法警察員に対する昭和四〇年一一月二六日付供述調書によると、同年七、八月頃地下鉄動物園前で被告人浜野に出会つた際、同被告人から金の無心を言われたのに対し、それをことわる口実に、「自分には六才になる女の子がいるし、金がない」と言つたことがあるというのである。そして、この供述は、被告人浜野が司法警察員に対し、女の子のことを供述した調書の日付より前になされているから、弁解のためにしたものとして無下に排斥することもできず、他に女の子のことを知る機会がなかつたとは云いえないことなどよりすれば、被告人浜野の右供述そのものが疑わしく、これをもつて前記供述部分の信用性の担保となし得ないものである。

(四)  証人洪行雄の当公判廷における供述によると、被告人川本が本件で逮捕された昭和四〇年一一月一九日、被告人浜野は南警察署一階留置場に、証人洪は同二階留置場にそれぞれ留置されていたところへ、被告人川本が同二階留置場に収容されてきたが、その際、被告人浜野が、同川本に対し「ここまできたら仕方ないから辛抱してくれ、わしも初めは否認して頑張つていた。」という趣旨のことを言つたのに対し、被告人川本が「今更ぬけぬけとよう口が聞けるのう」という趣旨の答えをしていた事実が認められ、その限りにおいて被告人浜野の当公判廷における供述に符合するが、被告人浜野が右のような発言をした状況を考えてみると、同被告人の右公判廷における供述によれば、被告人川本が逮捕され、留置場に収容される直前に被告人浜野は、取調べの警察官から、「被告人川本を一緒に留置場に入れてよいか。」と言われ、「かまいません。」と言うと、「けんかするなよ。」と言われた、というのであつて、被告人川本が否認し、怒つているらしい事実を承知して同被告人の収容されてくるのを待つていたものであつて、既に四日前より被告人川本との共同実行の事実を自供してきた同被告人が右の段階で前記のような供述をしたことはそれ自体特別の意義を有するものとは認められず、また証人浜野の前記供述部分の信用性を支えるものとは考えられない。

五  次に、被告人川本は、前記のとおり、捜査、公判の段階を通じて終始犯行を否認するばかりではなく、犯行時およびその前後のいわゆるアリバイを主張しているので、その成否について検討を加えることとする。

被告人川本はいわゆるアリバイとして昭和四〇年五月一四日は朝から、勤め先の豊留忠義が山本塗装店の下請けをしていた住吉区内の栗本鉄工所の塗装の仕事に出張し、同日午後七時頃帰宅しているから証人浜野の供述するように同日正午過傾南海本線萩の茶屋駅附近で被告人浜野と会うことは不可能であり、翌一五日は朝から右鉄工所に出張し、午後七時頃帰宅し、夕食後の午後八時三〇分頃北浦幸子を連れて鈴木医院および飛田北門の夜店に出かけて行き、午後九時三〇分頃帰宅した、そのとき幸子が、おもちやの吹矢でけがをしたので、このことはよく覚えている。そして、午後一〇時前位に知人山本茂雄方に行き三〇分位して帰宅したが、その際山本に腕時計の質札を買つてくれと言つたところ妻のお産に金がいるからと言つて買つてくれなかつた。山本方から帰宅後間もなく角野由美がきて午前一時頃まで自宅で同女と過ごした旨主張する。ところで、本件犯行の謀議および実行につき直接関係のある時点は、前記証人浜野の供述部分によると、そのうち一四日正午頃と一五日午後八時頃以隆一〇時過頃までとであるから、そのそれぞれについて考えてみる。

(一)  被告人両名が萩の茶屋商店街で出会い本件強盗の相談をしたという同年五月一四日正午頃の被告人川本のアリバイについて、

前記公判調書中証人勇忠の供述部分によると、株式会社山本塗装店の作業日誌には、同日豊留塗装店から塗装工三名の応援を得て、住吉区内の栗本鉄工所に仕事に行き、同鉄工所がインドネシヤ向けに輸出するポータブルクラツシヤー(トレーラー)の再塗装、ロツトミル(大型砕石機)の塗装などを行つた旨の記載があるが、右豊留方から派遣された塗装工の中に被告人川本がいたかどうかは不明であるというのであり、第五回公判調書中証人豊留忠義の供述部分によると、昭和四〇年四月から五月一五日頃にかけ山本塗装店が請負つていた栗本鉄工所の仕事の下請けをしたことがあるが、その頃の塗装工の出面などを記載した唯一の資料である日報がなくなつたため、その頃、誰が、何処へ塗装に行つたかはわからない、警察から調べにきたときには既に右日報はなくなつていた、昭和四〇年五月頃四、五人の職人を雇つていたというのである。してみると、当日豊留方より派遣した職人の中に被告人川本が含まれていたという確証は得られなかつたが、他面、同被告人が含まれていなかつたと断定することも許されないところである。

(二)  被告人両名が萩の茶屋商店街で落合い現場に向かつたという五月一五日午後八時頃から、強盗を失敗して逃走したという同日午後一〇時頃までおよびその前後における被告人川本のアリバイについて

1 前記公判調書中証人北浦直子の供述部分によると、通称飛田北門筋には毎月五日、一五日、二五日の三回夜店が立ちならび、被告人川本はしばしば長女幸子を伴つて夜店に行つたり、同女の鼻の治療のため、かかりつけの鈴木医院に連れて行つてくれた、夫の母が病気で寝ていた間(昭和四〇年五月一日頃から同年六月四日まで)の或る夜店のあつた日に幸子は被告人川本に夜店に連れられて行き、同被告人に買つてもらつた吹矢で咽喉をけがしたことがあるが、それが一五日だつたかどうかは記憶がないというのであり、また、同公判調書中証人北浦新市の供述部分によると、同証人が鈴木医院に行き確かめたところ五月一五日に北浦幸子が通院しているとのことだつたというのである。そうすると被告人川本が同夜北浦幸子を連れて夜店および鈴木医院に行つていたという弁解も一概に排斥できないものを持つている。

2 第六回公判調書中証人山本茂雄の供述部分によると、同証人は昭和四〇年四月の初め頃から同年一〇月頃にかけ、西成区山王町一丁目疋田方に居住していたが、その間被告人川本とは五、六回会つた、同年五月一七日妻がお産のため入院(同月一九日出産)したが、同被告人は、妻の入院前に二回、入院中に一回、子供が生れてから一回の計四回家に来たことがある、妻の入院前家に来た中の多分二回目の時と思うが同被告人が時計の質札を買つてくれと言つたことを記憶しているというのである。右によると、被告人川本が右山本方に行つたのが五月一五日の夜であつたと認めるにはいたらないが、だからといつて同夜でなかつたとも断定できない。

(三)  被告人川本のアリバイの主張に関し検察官は、同被告人は自己の経験した基礎的な事実関係をもつてきて、これを犯行当日および前日に結びつけようと努力したが結局いずれも証明されなかつた、同被告人は、豊留忠義に宛てた四通の手紙の内容にもみられるように明白な事実関係に相反することを平気で表明しているもので、その弁解は転々として虚偽に満ちたものであつて、その性格、態度などよりみて同被告人の主張は全く信用できないものであるという。なるほど、押収してある所論封書四通には、既になされた証人らの証言内容をまげて報ずるとともにアリバイに関し自己に有利な証言を暗に依頼する趣旨の記載がなされていて、このような手紙を証人として喚問されている右豊留に送ること自体不穏当のそしりをまぬがれないが、しかし、アリバイを証明する以外に何ら身の潔白を証明する手段がないと考えた同被告人の心境を考えると、一面無理からぬところもあり、これをもつて直ちに同被告人のアリバイの主張が虚偽であると断定するわけにはいかない。また、同被告人の検察官ならびに司法警察職員に対する各供述調書、公判の段階における供述を通覧すると、アリバイに関する同被告人の主張に若干のそご、変せんがみられるのは検察官所論のとおりであるが、その主張は大筋において一貫しているのみならず、もともと半年以上も経過した時点において、過去の日常生活を記憶にもとづいて正確に再現することは至難なことであるところ、取調べに当つた警察官から、同被告人が同年五月一二日豊留塗装店から派遣されて山本塗装店が請負つた守口市方面の水源地の水門の塗装工事に従事したこと、豊留が下請けした四貫島のアーケードの塗装工事中に転落事故があり、それが同月一九日であつたことなどを知らされる等記憶喚起のための示唆を与えられたにしても、その主張は具体的で、かつ、ある程度の正確さもうかがわれるのであつて、その間いくぶんのそご、変せんがあつたとしても、記憶喚起の困難さを考慮すると、それはむしろ当然のことで、それがため同被告人のアリバイの主張を合理性なしとして全面的に否定し去ることは相当でない。

六  以上の次第で、本件公訴にかかる強盗致傷の事実と被告人川本とのつながりを証明すべき唯一の証拠である証人浜野秀明の証言には右つながりの点に関するかぎり十分の信用性を置きがたく、他面、被告人川本のアリバイの主張も無下に排斥できないから(なお、前記証人小川吉弘の供述部分によると、警察で同被告人に対しポリグラフ検査を行つたが捜査機関の期待するような反応が現われなかつたとのことである)、結局、同被告人については犯罪の証明がないことに帰し、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡をすべきものである。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 河村澄夫 岡次郎 岡田春夫)

別紙犯罪一覧表〈省略〉

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